１９７０年代の後半のことだと思う。ラザール・ベルマンという当時のソ連のピアニストがリストの『超絶技巧練習曲』のＬＰとともに日本に紹介された。このＬＰは相当の興奮をもって世に迎えられた。こんなに凄いピアニストがソ連の中で埋もれていたのか、という受け止め方だった。私もそのＬＰを買った。ＬＰの帯にはリヒテルの次のような言葉が引用されていたと記憶している。「私とギレリスが４本の手で弾いてもベルマンにはかなわない。」
　このリヒテルの引用が長い間、エミール・ギレリスというピアニストに対する私の印象のすべてだった。私はギレリスの演奏のＬＰはまったく買ったことがない。エアチェックもしたかどうか覚えていない。ＣＤなどはむろん、何も買わずにいた。

　ギレリスというピアニストが実は凄いピアニストではないかと思い始めたのは数年前のことである。カミさんの運転する車では、よく聴く片面４５分テープが２つあった。両方ともベネディッティ＝ミケランジェリがピアノを弾くベートーヴェンのピアノ協奏曲の入ったテープである。１つのテープのＡ面にはベートーヴェンのピアノ協奏曲１番が入っている。Ｂ面にギレリスのピアノ、メータ指揮のニューヨークフィルによる、チャイコフスキーのピアノ協奏曲１番が入っていた。もう１つのテープのＡ面にはベートーヴェンのピアノ協奏曲５番、Ｂ面にはピアノがアルゲリッチの、同じチャイコフスキーの１番が入っていた。チャイコフスキーの１番を私が好きだったというより、ピアノ協奏曲を録音した反対面にやはりピアノ協奏曲をエアチェックしようとした結果、放送される頻度の高いチャイコフスキーの１番を録音することになったのだと思う。
　目当ての録音はＡ面のベートーヴェンだったけれど、テープは裏も聴くはめになる。この２本のテープを何年もの間聴ききながら、計らずもギレリスとアルゲリッチの演奏を何度も比べることになった。録音はギレリスの方が古いはずだけれど、どちらもライヴ盤である。録音条件は同じようなものである。

　チャイコフスキーの１番は演奏家によって印象がそれほど変わるものではない、と思う。しかしこの２つの演奏はだいぶ異なる。天才という先入観念を私が持つアルゲリッチと、「４本の手」の片割れという先入観念のあるギレリスである。先入観念からするとアルゲリッチに利がある。にもかかわらず簡単にアルゲリッチに軍配を上げる気にはなれなかった。アルゲリッチの演奏はテンポが変幻自在で音楽の流れをうまく作るところにある、ような気がする。他方でギレリスは頑固一徹、男性的に弾き抜く。
　この曲の通俗的な見せ場は第３楽章でピアノが下品なほど派手に弾きまくるところにある。アルゲリッチが作る音楽の流れも素晴らしいけれど、ギレリスの方はあいまいな音が一つもない。聴きながらギレリスの凄さが印象づけられた。よく聞く「鋼鉄のタッチ」とはこのことかと認識した。

　ギレリスがド派手な演奏をするだけのピアニストでないことは、ヨッフム＝ベルリンフィルとの競演によるブラームスのピアノ協奏曲のＣＤを何度も聴いてよく分かった。ブラームスの録音は２つの協奏曲とも、私が知っている中で演奏時間が最も長い。テンポが遅い。この遅いテンポの中でロマン的な音色が印象的な音楽になっている。むろん重そうなタッチで弾き抜くところはギレリスに一貫している。
　カミさんの車にかかるＭＤがずっと、ギレリスのブラームスの２番であることは、このページの以前の項で書いた通りである。

　最近、新星堂が出しているＣＤで、ギレリスの１９５０年代の録音の１枚を買った。計らずも、チャイコフスキーの協奏曲１番とブラームスの２番が入っている。この種のＣＤの常として、どういう素性の録音なのか、解説がまったくない。が、フリッツ・ライナー指揮のシカゴ響との競演であるから、怪しげな代物ではないだろう。
　驚いたことに、ブラームスの２番の録音時間が４５分弱、私が知っている中で最も短いのである。ヨッフムとの録音の２番の演奏時間は５２分だったから、７分も短い。短い理由はいろいろあるだろうが、ともかくテンポが速い。ライナーが速いテンポが好きだったこともあるかも知れないけれど、１０数年の間にギレリスのブラームスの２番はテンポの上で反対の曲に移動したことになる。
　この、速いテンポのブラームスの２番も魅力的である。けれども、１０数年を経た遅いテンポの録音は別の次元に到達しているように思えてならない。
　そうは言いながら、ギレリスのＣＤを私はいまだにほとんど買っていない。暇とお金があればこのピアニストを追いかけるのもよいのだろうと思っている。

【追記】(2002/01/26)
　このページをご覧になった石戸俊和さんから記述に誤りがあるというご指摘を頂きました。上では「私とギレリスが４本の手で弾いてもベルマンにはかなわない」とリヒテルが言ったと書きました。が、事実は逆で、ギレリスの方が「私とリヒテルが４手で弾いてもベルマンにはかなわない」と評したとのことです。うーん、そうだったか。人の記憶は当てにならないと反省しきり。