Ａがいなくなった (2003/02/27)

　今年の１月はやたらと寒かった。しかし今から思えば、その寒い１月が私とＡの最後の幸せな接触のときだったかも知れない。

　２月に入ってから外猫のＡの行動にやや変化が見え始めた。今までならＡは朝早く家の敷地内に現れる。が、２月に入ると昼近くならないと現れないことが多くなった。いくぶん暖かくなったので猫はあちこち出かけているのだろう、と思った。それでもＡはやって来る。温室には固形の食糧が置いてあるけれど、Ａがやってくれば私は温室に行って別の食糧を置いた。
　最近になって家の庭にやって来る猫も変化した。野良猫は、Ａ以外は長期間繰り返しやって来ることはない。時間とともに多少入れ替わるのである。このところやって来るのは、「チーＡ」と娘が呼ぶ、白黒の胴の太い猫と、私が「赤猫」と呼ぶ全身茶色の猫だった。しかし２月になってからこの２匹は急に見なくなった。代わりに見かけるのは、Ａとよく似た、ストライプタビーの、たぶんオスの猫である。もう１匹は、薄い茶のかかった白っぽい大猫の「赤白猫」である。Ａと似た猫の方は実際、Ａと一緒にいたこともあり、もしかして血族なのかも知れない。

　２月の１０日前後、この日は朝早く家を出た。Ａを見かけなかったので、なぜかその日だけ、黒缶パックをお椀に入れてＡのために温室に置いて家を出た。カミさんがＡを見かけたときにやってくれれば有難かったが、あいにくカミさんはＡへの興味が薄い。
　実はこの日、職場では緊張する展開があった。一応緊張が解消した午後、たまたま気になって自宅に電話した。Ａは見かけたかとカミさんに聞くと、そんなこと知らないという冷たい返事。ともかくＡを見たら餌をやるように頼んだ。
　その直後、カミさんから電話がかかった。温室で大きな音がし、行って見たら中が荒れているという。Ａは温室ではなく、犬小屋に入っているという。食糧をやるのかと私に聞くので、やってくれと頼んだ。カミさんの話では、黒缶パックを犬小屋の前に置いたけれど食べずにじっとしているという。
　仕事を早めに切り上げて家に急いだ。といっても帰宅したときには暗かった。
　まず温室を開けると、確かに中が荒れている。固形の食糧が飛び散っていて、中は糞尿の臭いが充満している。
　次いで家のドア近くの犬小屋を見た。暗くて中は分からない。懐中電灯を当てるとＡがまだ中にいた。私が犬小屋の前に立ちはだかる格好になると、Ａは怯えたのか、威嚇する表情になってシャーと声を出す。Ａはもともと声が出ない。ニャーと鳴いたことはない。そのＡが脅すように私にその表情を向ける。犬小屋の前には食糧のお椀があるけれど、口をつけた形跡はない。水が置いていなかった。お椀を探して近くの蛇口で水を汲んで犬小屋の前に置いた。Ａは動かない。私が別のお椀を洗っている隙に、Ａは犬小屋を飛び出し、暗闇の中に消えていった。後を追ったけれどすぐに見失った。
　犬小屋の中にはたたんだ寝袋を敷き、その上に猫ベッドが置いてある。Ａはその上に座っていた。中を調べると、猫ベッドの上に血がついていた。Ａは怪我をしているのだ、と思った。
　無言で温室の掃除を始めた。

　その日から、Ａは現れなくなった。私は数日、家で口をきかなかった。
　Ａはどこかで死んでしまったのではないか、という予感にとらわれた。生きているなら現れて欲しかった。
　それでも私は温室に食糧を置き続けた。夜になるとヒーターをつけた。温室の食糧は毎日少しずつ少なくなっている。何れかの猫が来てたべているのだ。しかしＡなのかどうか、分からない。

　数日たった日曜の昼間、私が温室に行くと、内部の棚の下に猫のお尻と尻尾が見えた。Ａのだ。私は急いで食糧を入れたケースを取って来て、Ａにやろうと思った。が、既にＡの姿はどこにも見えなかった。
　あの姿はＡだと思った。しかしＡと似た猫の見間違いかも知れない、とも思った。
　Ａは実は死んでいるのではないか。最後の姿を見せるつもりでほんの一瞬現れたのではないか。そうも思った。

　この話にはまだ先がある。しかし私は、この話をこれ以上書く気になれない。書くのはつらいし、人様に見せる話でもない。Ａとのことはあまりに個人的なことなのだ。

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